時代から紐解く金沢の歴史とその魅力
歴史
金沢は鎌倉時代には北条氏の荘園で、1275年ごろ実時が称名寺の前身とされる持仏堂を建立したとされ、「金沢文庫」は同時に設けられた、当時の武士や僧侶などに利用された図書館でした。その後江戸前期には平潟湾を干拓して泥亀新田が造成され、また「金沢八景」と名づけて安藤広重が描いたように、景勝地として知られていました。明治時代には別荘地として、伊藤博文が明治憲法草案のために訪れたといわれています。
第二次世界大戦中は軍事施設も設けられました。昭和23年に金沢区は磯子区から分区して誕生しました。昭和30年代後半からは次々と宅地開発が行われるようになり、西柴、釜利谷、富岡、朝比奈地区などが造成され、また平潟湾の埋め立てによって昭和41年には柳町が誕生してベッドタウンとして発展してきました。 昭和40年代後半より大規模な海岸埋め立て事業がはじまり、昭和50年代から並木町の団地に入居がはじまりました。昭和50年代後半からは、京浜急行谷津坂駅を能見台駅に名称変更して、能見台地区の広範な宅地開発がはじまり、現在も継続中です。昭和63年には埋め立て事業が完成し、臨海産業地域としても発達しています。同時に、人工砂浜の海の公園がオープンし、平成以降は、金沢動物園、金沢シーサイドライン、横浜・八景島シーパラダイス、ベイサイドマリーナなどが完成し、観光地としてもにぎわっています。
金沢区は地形、開発の歴史、交通網などにより金沢地区(金沢八景から金沢文庫の京急より海側)、六浦・朝比奈地区(金沢八景南西部)、釜利谷地区(金沢文庫西部)、富岡・並木地区(区北部でおもに電話番号が77ではじまる地域)におおまかに分けることができ、それぞれ人口構成や生活圏、住民気質が若干異なっています。
金沢八景の由来
金沢の景観は、平安時代の絵師巨勢金岡が余りの絶景に感嘆して筆を捨てたといわれるほど、古くから知られていました。
現在伝えられている金沢八景は江戸時代明の僧心越禅師が能見堂八景の詩をつくったとき、この詩に金沢の八つの景勝地をあてはめたものです。
今では幕末の絵師安藤広重の描いた「武州金沢八景」が当時の面影をよく伝えるものとして有名です。
「平潟の落雁」 (ひらかたのらくがん) 平潟湾(野島橋付近)
中世 鎌倉の東の拠点として
鎌倉幕府の執権、北条氏の分家である金沢北条氏の拠点として、また幕府の海運の拠点として栄えました。
国指定史跡の称名寺・朝夷奈切通や金沢文庫等が作られたのも鎌倉時代です。
近世 風光明媚な景勝地として
主要幹線東海道の近接地として、鎌倉とともに旧跡・名所と意識され、南関東有数の景勝地として、さまざまな寄稿文や詩歌に記されるようになります。
また、新田開発によって平潟湾が埋め立てられたのもこの時代です。
近代 多くの偉人の愛した土地として
明治時代、風光明媚な金沢には東京から多くの観光客が訪れましたが、この地に別荘を持ち、休日を楽しもうとするとする人も多くいました。
また、東京・横浜の食糧庫・燃料庫として、江戸時代から引き続き農業・漁業・塩業が盛んに行われました。
昭和に入ると、金沢は横須賀軍港や国際港横浜の後背地として急激に都市化が進むことになります。